静かなる咆哮

~言葉は光、歩みは祈り。荒れ狂う運命を乗りこなし、真の自由へと手を伸ばす~

倒れた百日草が、私に教えてくれたこと|人は一人では立ち上がれない

夜間の雨風が強かったのか、倒れていた百日草

夜中の雨風が、強かったのだろう。

朝、庭に出てみると、一番背が高く、一番茎の太かった百日草が倒れていた。

根元を見ると、土までめくれ上がっていた。

ただ花が倒れただけではなかった。
強い風に耐えようとして、根まで揺さぶられたのだろう。

私は、その百日草を起こした。

根元に土を戻し、踏み固めた。
そして、太い棒を三本立て、倒れないように支えた。

もし、あの時。
私の手が加わらなかったら。

この百日草の運命は、どうなっていたのだろう。

もちろん、植物には植物自身の生命力がある。
倒れたままでも、再び太陽の方向へ伸びようとしたかもしれない。

それでも。

根が傷み、茎が曲がり、花が地面に触れたまま、少しずつ弱っていった可能性もある。

私は、しばらくその百日草を見ていた。

そして、ふと思った。

人間も、同じなのではないか。


人は、とかく「強く生きなければならない」と考える。

自分の力で立ち上がらなければならない。

人に頼ってはいけない。
迷惑をかけてはいけない。

倒れても、自分で起き上がらなければならない。

そう思ってしまう。

しかし、本当にそうなのだろうか。

人生には、どれほど強い人間でも、自分一人の力では立ち上がれないほどの風が吹くことがある。

根元の土までめくれ上がるような出来事がある。

自分ではどうすることもできない出来事。

心が折れそうになる出来事。

いや。

時には、もう折れてしまった後のように感じる出来事さえある。

そんな時。

誰かが手を差し伸べてくれる。

「大丈夫か」

「一人で頑張らなくていい」

「少し、ここにつかまっていろ」

その手がある。

その支えがある。

だから、人は再び立ち上がることができるのかもしれない。


今日、私は百日草を助けた。

そう思っていた。

しかし、違うのかもしれない。

百日草もまた、私に何かを教えてくれたのではないか。

もし、あの花が倒れていなかったら。

私は、こんなことを考えなかっただろう。

一番背が高かった。

一番茎が太かった。

だからこそ、強い風をまともに受けたのかもしれない。

小さな草は、風の下を通り過ぎたかもしれない。

しかし、高く伸びたものは、風を受ける。

そして、倒れることがある。

人間も同じなのかもしれない。

強い人だから、倒れないわけではない。

立派な人だから、傷つかないわけではない。

むしろ、大きな責任を背負う人ほど、大きな風を受けることがある。

だから。

倒れることは、弱さの証明ではない。

それは、生きている者が、時に大きな風を受けるということなのだ。


そして、もう一つ。

私が今日、一番心に残ったのは、三本の支えだった。

一本ではない。

三本の棒で、倒れた百日草を支えた。

人間にも、きっと支えが必要なのだと思う。

家族。

友人。

信じるもの。

思い出。

自分自身が大切にしてきた信念。

そして、祈り。

人は、たった一つの力だけで立っているのではない。

いくつもの支えによって、もう一度、空を向くことができる。


お大師様は、今日の私に何と諭してくださったのだろう。

私は、こんな言葉を思った。

「倒れたものが、自分の力だけで起き上がらねばならないと思うな」

そして。

「お前が倒れた花を起こしたように、いつかお前が倒れた時には、誰かがお前を支える」

だから、倒れることを恐れなくていい。

支えられることを、恥じなくていい。

人の手を借りることは、弱さではない。

そして。

自分が立っている時には。

倒れた者を、見過ごしてはいけない。


今日、庭で倒れていた一株の百日草。

私はその花を起こした。

けれど、本当は。

あの百日草によって、私の心の中にあった何かが起こされたのかもしれない。

人は、一人では立ち上がれないことがある。

だからこそ、人は誰かを支える。

そして、自分が倒れた時には、支えられる。

そうやって、人は生きている。

そうやって、人は、もう一度空を向く。

倒れることと、終わることは違う。

支えがあれば、また立ち上がることができる。

今日、倒れた百日草が、私にそう教えてくれた。

合掌。

再び立ち上がった百日草