静かなる咆哮

~言葉は光、歩みは祈り。荒れ狂う運命を乗りこなし、真の自由へと手を伸ばす~

階伯の死、空海への尊敬 | そして韓国に見た「もう一人の求道者」

 

きっかけは、一本の韓国ドラマだった

韓国ドラマ「階伯(ケベク)」の最終回を見終えたとき、私の中に残ったのは「悲しい」というより「重い」という感覚だった。

百済の将軍・階伯は、黄山伐の戦いに出る前に、自らの妻子を手にかけている。国が滅びれば、彼らは辱めを受けて生きることになる。それより、自らの手で終わらせる方がいい――そう腹を括った上で、彼は勝ち目のない戦場へ立った。

このエピソードは、ドラマの創作ではなく、千年以上前から韓国で語り継がれてきた実際の評価に基づいている。朝鮮時代の学者・徐居正は、百済の滅亡が避けられない状況の中で、妻子を辱めから守るために自ら手を下し、自分自身も戦って死んだその意志と節義こそ高く評価すべきだと述べている。階伯に対する最も一般的な評価は、今も「国を守った忠臣」というものだ。

一人の武人の死に方が、国境や時代を越えて千年以上「規範」として語り継がれる。この事実に触れたとき、私はふと、自分の中にある別の「尊敬」を思い出した。空海への尊敬である。

二つの尊敬は、同じ強さで、違う方向を向いている

階伯への尊敬と、空海への尊敬。並べてみると、構造はよく似ている。どちらも「一人の人間の生き方が、後世の精神的な参照点になり続けている」という点では共通しているからだ。

だが、尊敬の"向き"はまるで違う。

階伯への尊敬は、外に向かう忠節の物語だ。国のために、家族のために、自分の全てを差し出した人物への尊敬である。当時の百済の宮廷は、権力に阿る者たちが実権を握り、貴族が敵国と内通するような状況だった。そんな中、国家の命運を握る指揮官となった階伯にできることは、自分の全てを捨てて兵士たちに献身を示すことしかなかった――という見方もある。私利私欲に走る貴族たちと、すべてを捧げた階伯。この対比こそが、百済滅亡の悲劇を際立たせている。

一方、空海への尊敬は、内に向かう探求への尊敬だ。悟りや思想、それが生み出した体系そのものへの尊敬である。曼荼羅の世界観、密教の理論、書、土木事業まで含めて、内側から立ち上げたものの豊かさに対する尊敬だ。

尊敬の"強度"は同じくらい重い。だが、その"向き"は正反対と言っていい。ケベクは「捧げた者」への尊敬であり、空海は「立ち上げた者」への尊敬なのだ。

では、韓国に「空海」はいないのか

この違いに気づいたとき、自然と一つの問いが浮かんだ。韓国に、空海のような「内なる探求者」は存在するのだろうか。

調べてみると、見えてきた。しかも、一人ではなく、二人の方向に分かれて存在していた。

義湘(ぎしょう)――体系を持ち帰った者

新羅の僧・義湘は、唐に渡り、華厳宗第二祖の智儼のもとで正式に学んだ。帰国後、彼は朝鮮半島における華厳宗の祖となる。その思想の結晶が「華厳一乗法界図」だ。210文字の漢字を正方形のマトリックスに配置し、中心から迷路のようにたどることで、華厳の世界観そのものを体感できるように仕組まれた図である。

これは構造的に、空海の両界曼荼羅と驚くほど近い。空海の師・恵果が、大日如来の慈悲を表す胎蔵界曼荼羅と、智恵の働きを表す金剛界曼荼羅を一対の体系として整備し、空海がそれを日本に持ち帰った。義湘もまた、唐で学んだ体系を、一枚の図として自国に持ち帰った人物だ。「正統な師から法を授かり、それを一枚の図として自国に定着させた」という構造は、空海と義湘でかなり重なっている。

元暁(ウォンヒョ)――内側から突破した者

義湘と共に唐を目指しながら、道中で引き返した僧がいる。元暁だ。

伝わる話によれば、彼は唐へ渡る途中、暗闇の中で洞穴に入り、喉の渇きに水を飲んだ。それがひどく甘く美味しく感じられた。ところが夜が明けて周囲を見ると、その場所は掘り返された墓であり、飲んだのは骸骨に溜まった腐り水だった。愕然として吐き出したその瞬間、彼は悟った。「すべては心が作り出すものだ」と。

元暁はこの悟りを境に、唐への留学を自ら断念する。師の権威によって法を受け継ぐ道ではなく、自分の内側で突破口を見出す道を選んだのだ。その後は正式な僧団の枠を離れ、市井の酒飲みや貧しい者たちの中に混じって仏教を説き続けた。

義湘が「師から体系を受け継ぐ側面」、元暁が「自らの内側で悟りを開く側面」――空海という一人の人物の中に重なっている二つの質が、韓国ではそれぞれ別の人物として現れている、と言えるかもしれない。

遍路を歩く私は、どちら側にいるのか

玄豹として空海の世界観を書き継ぎながら、私は遍路を歩き、「約束の地」を探し続けている。この営みは、体系を正式に受け継ぐ義湘的な道ではなく、歩みながら自分の内側で答えを見出していく元暁的な道に近いのだと思う。

つまり、空海という巨大な存在の中でも、私が追いかけているのは、恵果から正統な法を受け継いだ「制度としての空海」ではなく、山岳修行の果てに自ら悟りを開いた「求道者としての空海」の側面なのだ。

一本の韓国ドラマの最終回から始まった問いが、思いがけず、自分自身の歩む道の輪郭をはっきりと見せてくれた。国のために全てを捧げた階伯。師から体系を受け継いだ義湘。そして、自らの内側で世界を作り直した元暁。

三人のうち、私が最も近くに感じるのは、迷いながらも自分の内側に答えを見出した、あの元暁の姿である。